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〈千年村〉候補地としての東北におけるアイヌ語地名比定地について

2022年8月15日

目次

0.はじめに

本プロジェクトでは、千年の単位を基準として、長期にわたって社会集団の生存を維持しえた地域を〈千年村〉、〈千年村〉である可能性を持つ地域を〈千年村〉候補地*1と規定し、その収集、調査、公開、顕彰、交流のプラットフォームとして活動を行ってきました。 ここでは、〈千年村〉候補地の参考文献である平安期文献『和名類聚抄』との比較から、アイヌ語地名を用いた、東北地方におけるデータベースについて説明します。

平安期文献『和名類聚抄』には、北海道、青森、沖縄の古代地名は記載されておらず、東北北部の秋田、岩手についての記載もほとんどありません。これは、『和名類聚抄』に記載された郷名は九世紀後半のものであった可能性が高く*2、この時代には北海道、東北北部、沖縄は畿内政権の支配下に置かれていなかったことが関係しています。北海道についてはアイヌ語地名、沖縄に関しては古文献『おもろさうし』を元に長期持続集落発見の検討が行われてきましたが、東北北部に関しては未だプロットが極端に少ない状況です。そこで、東北北部において、東北の地名研究について史料批判を行った上で、現在の地名の由来がアイヌ語地名であるものについてプロットしました。千年村プロジェクトではこれらを<千年村>の候補地として提示することにしました。

1.東北アイヌ語地名のプロット手法について

『和名類聚抄』成立期の東北地方では、蝦夷*3と呼ばれる人々が暮らしていました。この蝦夷とアイヌ民族との関係性は未だ明らかになっていませんが、*4これまでの言語学、地名学、考古学等の研究の中で、この蝦夷と呼ばれる人々がアイヌ語で解釈できる地名をつけた人々であったというのがほぼ通説です。また近年の研究からは、飛鳥時代以降住み着いた大和言葉を話す人々がアイヌ語の地名を採用し定着させた説も提唱されています。*5いずれの説にせよ、現在も東北にはアイヌ語由来とみられる地名が多く存在しているのは事実です。

アイヌ語地名は多くの学者によって研究されてきましたが、その多くは北海道の地名についてです。また、東北でのアイヌ語地名研究は近年でも行われていますが、その多くは既存のアイヌ語地名研究の成果を元に新たな解釈を加えたり、考古学など他分野との関係性から検討したりするものです。そのため、ここでは東北のアイヌ語地名研究としては最初期のものであり、現地での直接的な聞き取りが可能であったと思われる1990年代前半までの研究の中から参照する文献を選定しました。*6

その中で、金田一京助「奥州蝦夷種族考」工藤雅樹編『金田一京助の世界2 古代蝦夷とアイヌ』 ( 平凡社、2004 年)、山田秀三『東北・アイヌ語地名の研究』(草風館、1993 年)第2編に見られる東北のアイヌ語地名を元にリストを作成し、以下の分類化を行いました。

1 単一字及び大字(一部変更も含む)

2 複数大字

3 施設名等に残存

4 市町域以上

5 和名地名

6 環境表現名

7 存在しない

8 不明

〈千年村〉候補地マップ上には、これらのうち、1・2の大字領域内に含まれる地名をプロットし可視化を行っています。

2.東北アイヌ語地名と『和名類聚抄』による〈千年村〉候補地の比較

ここでは、前述した東北のアイヌ語地名プロットと『和名類聚抄』を元にした〈千年村〉候補地のプロットに関して、比較してみようと思います。これらのプロットの分布に関して見比べると、『和名類聚抄』地名の北限と、東北アイヌ語地名の濃密分布地域の南限が、秋田県南部から宮城県北部にかけた線で一致していることがわかります。

アイヌ語地名に南限があるというのは、金田一や山田によって、既に指摘されています。金田一の説では「白河の関、勿来の関以北」*7 、山田の説では「東は先代のすぐ北の平野の辺、西は秋田山形県境の辺」*8とされており、前述した〈千年村〉候補地の北限と東北アイヌ語地名の濃密分布地域の南限は、山田の説とほぼ一致します。

また、和名抄郷名の北限に関しては、畿内政権の段階的な辺境支配と関連していると考えられます。『和名類聚抄』地名の北限およびアイヌ語地名の南限は、古代東北の文化的な差を示す線とほぼ一致しているためです。この線から北は異なる文化圏の影響が濃厚に残っていた可能性が高く、蝦夷の強力な抵抗を受けたために畿内政権の進出が遅れたと言われており、*9そのために、『和名類聚抄』にはこの線から北の地名が存在しないのです。この境界線の南北で、倭人と蝦夷の勢力が拮抗し、停滞していた時期があったのではないかとされており、山田はこれに関して、「この南北線の辺で抵抗が強くなり和夷共存の方針で北進するようになって、この線から北にアイヌ語地名が多く残った」*10との説を提唱しています。

以上見てきたように、アイヌ語地名の南限と『和名類聚抄』地名の北限はほぼ一致し、その境界線は倭人と蝦夷の拮抗した跡であったと推察されます。また双方の分布に多少の重なりが見られるということは、その境界付近で異なる民族同士の交渉が行われたことを示唆しているように思われます。

3.おわりに

以上、アイヌ語地名を活用し、東北における〈千年村〉候補地発見手法を検討しました。さらにこれを元に『和名類聚抄』地名との比較による考察を行いました。

東北アイヌ語地名のデータベースのマップ表示に関しましては、可視化を第一の目的としたもので、この表示が示す領域やその中心に大きな意味はなく、あくまで目安とお考えください。 また、東北には本データベースに表記した以外に多くのアイヌ語地名があります。ここに載っているアイヌ語地名が全てではないことを予めご了承下さい。

なお、東北におけるプロットは千年という単位ではありませんが、千年村プロジェクトの既往の成果に基づき、金田一京助、山田秀三の東北アイヌ語地名研究を根拠にそれを空間的に可視化することで、新たな地域への研究の展開の足がかりとしました。

*なお本作業は東野友紀『東北アイヌ語地名プロットによる東北〈千年村〉の抽出手法 –阿仁川流域における集落分析を通して–』2021年早稲田大学建築学科中谷礼仁研究室修士論文をベースとした作業であり、同研究の概要について同ほか「『和名類聚抄』批判に基づく東北地方における長期持続集落の発見手法─秋田県阿仁川流域における集落分析を一例に─ -千年村研究その16-」日本建築学会学術梗概集、2021.09を参照ください。

  • 1 中谷礼仁、庄子幸佑、鈴木明世「〈千年村〉研究その1:平安期文献『和名類聚抄』の記載郷名の比定地研究を用いた〈千年村〉候補地の抽出方法と立地特性に関する研究」(『日本建築学会計画系論文集』87巻 791号,2022年)
  • 2 池辺弥『和名類聚抄郷名考証』(吉川弘文館、1966年)

、坂本賞三「太田文からみた郡郷・別名制について (Ⅱ)」滋賀大学教育学部『滋賀大学学芸学部紀要 人文科学・社会科学・教育科学』(15)、1965年)

  • 3 辺境のうち、出羽国、陸奥国、現在の東北や北陸に住んでいたとされる人々を指す。古くは「毛人」と表記され、「蝦夷」と表記されたのは七世紀中頃からである。エミシ、エビス、エゾなどの読み方があり、エゾは平安中期以降の読み方である。特に古代の東北に住んでいた人々を指す際にはエミシ、エビス、近世以降の北海道自体やそこに住むアイヌを指す場合はエゾと呼称することが多い。(参考:第1章 律令体制の形成と展開 第3節 国郡制の実施「辺境」(榎本淳一),角川日本地名大辞典 別巻 日本地名資料集成,角川書店,1990年、東北学院大学史学科 編『歴史の中の東北 日本の東北・アジアの東北』 河出書房新社,1998年)
  • 4 蝦夷に関しては、その出自について盛んに議論が行われてきた。大別すると、蝦夷とアイヌを同一民族とする蝦夷=アイヌ説(石器時代人=蝦夷=アイヌ説とも)と、蝦夷を古代日本人としてアイヌとは異なる民族であるとする蝦夷=倭人説(蝦夷=辺民説、蝦夷=非アイヌ説とも)の2説がある。かつては喜田貞吉 (1871―1939)、小金井良精 (1858-1944)等の支持した蝦夷=アイヌ説が優勢だったが、発掘資料が豊富化し人類学、考古学などの研究が進むにつれて、蝦夷=倭人説が次第に優勢になった。しかし、氏家和典(1928-)や工藤雅樹(1937-2010)は、東北におけるアイヌ語地名の残存などを理由に蝦夷倭人説にも疑問が残ると指摘しており、未だ決着を見ない。

*5 松本建速「本州東北部にアイヌ語系地名を残したのは誰か」『考古学研究』第60巻第1号(通巻237号)55-75p.(2013年6月)

*6 1990年代前半までの東北におけるアイヌ語地名の研究者としては、その著作が残っているもので、金田一京助、山田秀三、西鶴定嘉が挙げられる。金田一京助は、東北のアイヌ語地名研究の草分け的存在である。金田一は「東北の地名とあいぬ語」(『土俗と伝統』1919 年)の中ではじめて、東北の地名の中にアイヌ語に起因するものがある可能性を説き、「奥州蝦夷地名考」(「五島美術館美術講座」1962, no.7に初出)の中でさらにその論考を深め、東北のアイヌ語地名を地図上に描き出そうという試みが見られる。北海道でのアイヌ語地名研究の蓄積を元に、特に川に関連したナイやベツの地名に着目しており、地形や環境との関連性から比定を行っているという点で信憑性が高い。山田秀三は、前述した金田一の研究を元に、豊富なフィールドワークを通じてアイヌ語の意味と現地の自然環境が一致しているか確認した上で比定を行っているのが特徴である。この作業により、和名で理解すべき地名を誤ってアイヌ語で解くのを回避しており、比定の根拠に信頼がおける。『東北・アイヌ語地名の研究』(草風館、1993年)は山田の東北のアイヌ語地名研究の集大成であり、略地図ではあるが、地図上に東北のアイヌ語地名の空間を描き出そうという試みが見られる。西鶴定嘉の東北アイヌ語地名の研究は『東北六県アイヌ語地名辞典』のみである。金田一、山田に比べ非常に多くの地名をアイヌ語地名として抽出している点は評価できる。しかしその分精度も低く、和名と思われる地名も混在している。部分的に現地の地理環境を比定の根拠として挙げているものはあるが、多くの地名については言語学的な解釈にとどまる。また西鶴の研究のほとんどは樺太アイヌについてだが、樺太のアイヌ語は北海道のアイヌ語とは発音などの点で相違点があるとされている。そのため、さらに地理的に離れている東北のアイヌ語地名を樺太のアイヌ語で解読するのは、大きな解釈のずれが生じる可能性が高いと考えられる。以上の批判から、本プロットでは金田一京助「奥州蝦夷種族考」工藤雅樹編『金田一京助の世界2 古代蝦夷とアイヌ』 ( 平凡社、2004 年)、山田秀三『東北・アイヌ語地名の研究』(草風館、1993 年)を参照元としている。

*7 山田秀三『アイヌ語地名の研究』(草風館、1982-1983)第一巻

*8 山田秀三『東北・アイヌ語地名の研究』(草風館、1993年)

*9 今泉隆雄「古代東北の地域性 第2節辺遠国」『新版[古代の歴史]第九巻 東北・北海道』(角川書店、1992年)

*10 ⼭⽥秀三『東北・アイヌ語地名の研究』(草⾵館、1993 年)