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緯度経度
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35° 43' 49" 北, 140° 7' 15" 東
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印旛沼の西限にあたる現在の八千代市村上付近に比定される(地名辞書・地理志料)。(p838)
※『和名類聚抄』の郷名比定地について
コメント
本日2014年7月21日(月)、佐倉に遊んだ折、国立歴史民族博物館第1展示室(原始・古代)にて下総国印旛郡村神郷に関する以下の情報を得ました。同展示室には、村神郷の一部区域に比定される村上遺跡の復元模型がありました。
1.村神郷の範域は、新川右岸の「村上」のみならず、新川左岸の「萱田」も含むこと。
Wikipediaにも、「大宝律令により、この地域は村神郷となる。その後、9世紀(平安時代)になると集落が発展し、対岸の萱田まで広がった。「村神郷」とかかれた墨書土器が権現後遺跡で出土したことから、新川両岸の範囲が下総国印旛郡村神郷にあたることが発覚した。」とあり http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9D%91%E4%B8%8A_(%E5%85%AB%E5%8D%83%E4%BB%A3%E5%B8%82)&oldid=52273708 、考古学的事実と考えられる。つまり村神郷の実際の範域は、地名辞書・地理志料の比定範囲よりもさらに広く、新川両岸の台地にまたがっていた。
2.村神郷の中心的集落は新川右岸の村上ではなく、左岸の大字萱田にある白幡前遺跡付近であろうこと。
加えて、上記Wiki情報によれば、元々は「村上」から集落が始まり、新川左岸(現在の大字萱田)に展開した、とあるので、郷の中心(拠点的集落)が動いたと考えられる。
3.村神郷は8世紀から10世紀にかけて存在し、10世紀に廃絶したこと。
現在集落があり、人が住んでいるからといって、千年以上ずっと人が住み続けてきたとは限らない。途中、無居住または集落が消滅し、その後復活したケースもありうる。
以上より、地名辞書・地理志料の比定範囲と実際の郷域が異なるケースは少なからずあり得る。疾走調査はともかく、詳細調査に際しては、郷域や拠点的集落に係る考古学的な知見についても確認するべきであろう。(木下剛)
-- Kinoshita (トーク) 2014年7月21日 (月) 13:46 (UTC)