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石岡市高浜(茨城県) 2025登録済

2025年3月13日 (木) 15:40時点におけるAkiyo03 (トーク | 投稿記録)による版

目次

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茨城県石岡市高浜 は千年村に登録されました。(2025年2月13日申請)

緯度経度 36° 9' 44" 北, 140° 17' 57" 東


登録千年村の情報

基本情報

登録地域:茨城県石岡市高浜
申請者:早稲田大学中谷礼仁研究室千年村ゼミ
申請日:2025年2月13日

集落・地域の詳細

◯環境

地名は「⾼い浜辺」に由来する( 『⽯岡市史上巻』序説「高浜」より)。
集落南部を流れる恋瀬川流域の住宅地および低湿地帯に対して、20m近く切⽴する⽯岡台地の⾼低差が印象的である。国土地理院の地形分類図によると、高浜は西部から伸びてきた石岡台地の東端として、霞ケ浦に面していることがわかる(国土地理院 5万分の1 地形分類図[玉造])。
恋瀬川は、集落の⽔源であるとともに⽔上交通の⼿段でもあった。集落を結ぶ道路(県道118号)は、かつて⽔⾯が⾼かったときの「浜」、すなわち海岸線を表しているのではないかと推察されており[※1]、古代から続く豊饒な理想郷としての様⼦は『常陸国⾵⼟記』にも紹介されている。 人々は船を漕ぎながら四季を楽しんだ。
春は則ち浦の花下に彩り、秋は是岸の葉百に⾊づく。歌える鶯を野の頭(ほとり)に聞き、舞へる鶴を渚の⼲(ひかた)に覧(み)る。社郎漁嬢、浜洲を逐ひて輻輳(あつま)り、商豎農夫䑧艖(ふね)に棹して往来す。

「浜」は稲作・畑作を⾏う農用地であると同時に、江⼾期には河川堤防整備、⼤正期には⼲拓事業の行われる⾃然と⼈との葛藤の歴史の舞台でもあった(『⽯岡市史上巻』p17-18より)。 また、筑波山に端を発し花崗岩を通った水は濾過なしでも良質な軟水で、現地ヒアリングによれば、かつては5〜10mの浅井戸でも得ることができた。
なお「⾼浜」集落の⻄部には、1895 年に開通したJR線を境にして、隣接する「北根本」集落が位置する。

※1 石岡市史編さん委員会(1985)『石岡市史 上巻』, 石岡市,p34

◯地域経営

石岡市の主作物は米・麦・大豆雑穀・養蚕などである。高浜集落の立地は恋瀬川沿いで、稲作が盛んであったことから、江戸時代、水流を利用して、関東まで年貢米を運んでいた。[※1]
霞ヶ浦東岸から始まり、高浜を通って石岡へ向かう道路沿いが栄えた。少なくとも明治36(1903)年にはこの道沿いに民家が形成されているのが確認できる。
農業や酒造・味噌業において清水をふんだんに使⽤している。廣瀬商店(酒造)・小倉味噌店におけるヒアリングから、清水に基づいた生業が現在まで継続していることを確認できた。県道沿いの低地に立地する高浜神社は、参道、拝殿などの向きが鹿島神宮に向かって建てられており、これはかつて存在した霞ヶ浦水系の包括的な水上交通に起因するものである。神社では現在も青屋祭という祭りが7月に行われており、もともとは鹿島神宮に舟で向かっていたものの、堤防の設置以降は境内での活動が中心となっている。[※2]

※1 石岡市史編さん委員会(1985)『石岡市史 下巻』, 石岡市,p830
※2 石岡市史編さん委員会(1985)『石岡市史 上巻』, 石岡市,p413

◯交通

恋瀬川は高浜・北根本の南側を流れ、霞ヶ浦に注ぐ重要な交通動線であり、寛永期から河岸問屋[※1]が存在し、年貢米や種借米(凶作の際に困窮した農民に貸す種籾や麦種)の輸送を請け負っていた[※2]。常磐炭田開発を当初主目的としていた常磐線の開通はそれまでの水運業中心の地域経営から一変させた。
高浜は霞ヶ浦水運を中心にして栄え、霞ヶ浦東岸から始まり、高浜を通って石岡へ向かう道路沿いには、200軒ほどの店が軒を連ねていた時代もあったということが、小倉味噌店聞き込み調査からも確認できた。現在は湿地帯となっているが、『高浜川岸輸出入の概略』によると幕末には西茨城郡、東茨城郡、新治郡、石岡町周辺といった広い地域から約120の村が高浜河岸を経由して江戸へ物資の輸送を行っていた。米、大豆、小豆、雑穀、薪炭、油、醤油、材木、瀬戸物、石炭などが江戸へ搬出され、塩、樽、粕、干鰯、砂糖、蝋燭などが江戸から搬入された。[※3]
明治二十二年の水戸鉄道開業を起点に、水上交通から陸上交通中心の地域経営へ転換していった。現在では常盤線が開通し、高浜駅[※4]が位置している。

※1 明治期には河岸問屋篠目家が「高浜汽船会社」と改称し、新式の蒸気船を運用した。(石岡市史編さん委員会(1985)『石岡市史 下巻(通史編)』, 石岡市, p.882)
※2 石岡市史編さん委員会(1985)『石岡市史 下巻(通史編)』, 石岡市, p.836
※3 石岡市史編さん委員会(1985)『石岡市史 下巻(通史編)』, 石岡市, p.865
※4 常磐炭田開発を主目的とし、1895年に開通した常磐線高浜駅付近は難工事を極めた。

◯集落構造

度重なる恋瀬川の氾濫により、堤防は高くなり、埋め立てられた土地の上に新しい集落が展開されている。この区域では堤防に生い茂るススキの植生が確認できたことからも、堤防の位置が恋瀬川に寄ったことがわかる。 また井戸が密集していることから、小倉味噌店や広瀬商店のある道が埋め立て以前に栄え主要な道として使用されていたことが確認された。ここで石岡市史より明治時代における産業構成から分かるように、石岡地方は醤油や酒の醸造業で栄え、これらの主要産業の点在が確認できた本道が重要な道として使用されていたことが裏付けられるであろう。[※1]

※1 石岡市史編さん委員会(1985)『石岡市史 下巻』, 石岡市, p.1072

◯千年村としての根拠と評価

⬛︎『常陸国風土記』に描かれる高浜の風景
『常陸国風土記』には、
「高濱の 下風騒(さや)く 妹を戀ひ 妻と云はばや 皃と召しつ」
とあり、高浜の文字が確認できる。
 また、高浜神社内にある立て看板には、『常陸国風土記』を引用して高浜の古代の情景を描いている。
「それ此の地は、芳菲の嘉辰、搖落の涼候、駕を命じて向ひ、舟に乗りて遊ぶ。春は浦の花干に彩り、秋は岸の葉百に色づく。歌へる鶯を野の頭に聞き、舞へる鶴を渚の干に覧る。社口漁嬢、濱洲を逐びて輻湊り、商堅農夫、新座に推して往来す。況乎、三夏の熱き朝、九陽の蒸すが如き夕、嘯ける友、率たる僕と濱曲に並び坐りて、望みを海中に騁す。識の風邪聞きて、暑さを避くる者は鬱陶しき煩を袪き、岡の陰徐に傾きて、涼しさを追ふ者は歡然しき意を軫かす。」

⬛︎古代における人の集まり
陸上交通の要所である国府と、水上交通の要所である高浜河岸を結ぶ古代道だと推測される道筋より、人々の往来が盛んであったことがわかる。古代道の横には大スケールの古墳が位置し、大きな支配力がこの地に及んでいたことが分かる。

⬛︎産業の発展
豊富な湧き水を利用した産業が、交通の要所としての立地を生かして発展し、一時期は200ほどの店が軒を連ねるほどに発展した。現在も酒や味噌造りなどの加工業は続いている。

⬛︎今後について
聞き込み調査を行った小倉味噌店では若年層への味噌の普及を目指した取り組みを行い、廣瀬商店においても「まれびと」プロジェクトに参加することで、各地から泊まり込みで酒造体験を希望する人々を受け入れていた。このように現在既に地域のいたるところで、高浜を盛り上げる活動が遂行中である。登録千年村を機に、高浜が持つ広大な景観と古代から人々が積み上げてきた土地に息づく魅力を知る人が増え、高浜が今後一層盛り上がっていくことを期待したい。

◯地域のキャッチフレーズ


清流が織りなす信仰と繁栄の村

◯地域の写真

古代道1
古代道2
高浜神社1
高浜神社2
小倉味噌店1
小倉味噌店2
恋瀬川
廣瀬商店1
廣瀬商店2

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