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石岡市北根本(茨城県) 2025登録済

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目次

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茨城県石岡市北根本 は千年村に登録されました。(2025年2月28日申請)

緯度経度 36° 9' 56" 北, 140° 17' 31" 東


登録千年村の情報

基本情報

登録地域:茨城県石岡市北根本
申請者:早稲田大学中谷礼仁研究室千年村ゼミ
申請日:2025年2月28日

集落・地域の詳細

◯環境

集落南部を流れる恋瀬川流域の低地に対して、20m近く切⽴する⽯岡台地の⾼低差が印象的である。国土地理院の地形分類図によると、北根本集落は西部から伸びてきた石岡台地の東端を占め、霞ケ浦の西部に位置している[※1]。
低湿地帯では住宅地および稲作地が位置し、台地では主に畑作(ネギ・柿など多種)が⾏われている。台地には船塚⼭古墳や愛宕⼭古墳などの史跡も位置しており、特に前者は東日本二位の威容を誇る。高低差を生かして適所に各⼟地⽤途が配分されている印象を受ける(フィールドワーク所感)。
なお恋瀬川沿いの低湿地帯は、稲作・畑作を⾏う農用地であると同時に、江⼾期には河川堤防整備、⼤正期には⼲拓事業の行われる、⾃然と⼈との葛藤の歴史の舞台でもあった( 『⽯岡市史上巻』p17-18より)。
また、恋瀬川は集落の⽔源であるとともに⽔上交通の⼿段でもあった。集落を結ぶ道路は、かつて⽔⾯が⾼かったときの「浜」、すなわち海岸線を表しているのではないかと推察されており[※2]、隣接する高浜地区と重複するが、古代から続く豊饒な理想郷としての様⼦は隣接する高浜集落とともに『常陸国⾵⼟記』にも紹介されている。 人々は船を漕ぎながら四季を楽しんだ。
『春は則ち浦の花下に彩り、秋は是岸の葉百に⾊づく。歌える鶯を野の頭(ほとり)に聞き、舞へる鶴を渚の⼲(ひかた)に覧(み)る。社郎漁嬢、浜洲を逐ひて輻輳(あつま)り、商豎農夫䑧艖(ふね)に棹して往来す。 』

「北根本」集落の東部には、1895 年に開通したJR線を境にして、隣接する「高浜」集落が位置する。

※1 国土地理院 5万分の1 地形分類図[玉造]
※2 石岡市史編さん委員会(1985)『石岡市史 上巻』 石岡市,p34

◯地域経営

約1平方キロメートルの土地に、83世帯223人が生活している。(国勢調査2020年調査結果)。
石岡市の畑作では古来より大麦、小豆、大豆、茄子、大根などが作られ[※1]、山林からとれる薪炭は、高浜から高瀬舟で江戸に送り出されていた[※2]。北根本集落は高浜集落の西側、恋瀬川流域に位置し、台地では畑作、低地では稲作が行われている。昭和40年ごろから高度経済成長により、転業する農家や兼業農家が増加した。これに伴い、農業生産性を上げるため大型農機具が普及し圃場整備が行われた[※3]。
また7 月には集落の両端に祀られている薬師如来、観音の祭りが継続されていることも現地ヒアリングで確認した。[※2]

※1 石岡市史編さん委員会(1985)『石岡市史 上巻』 石岡市,p19
※2 石岡市史編さん委員会(1985)『石岡市史 上巻』 石岡市, p20
※3 石岡市史編さん委員会(1985)『石岡市史 上巻』 石岡市, p939

◯交通

恋瀬川は高浜・北根本の南側を流れ、霞ヶ浦に注ぐ重要な交通動線であり、寛永期から河岸問屋[※1]が存在し、年貢米や種借米(凶作の際に困窮した農民に貸す種籾や麦種)の輸送を請け負っていた[※2]。常磐炭田開発を当初主目的としていた常磐線の開通はそれまでの水運業中心の地域経営から一変させた。
また台地上の舟塚山古墳には、かつて背高の松があり水運における目印の役割を果たしていたことを現地のヒアリングより確認した。
台地上には北西から南東にかけて古代道と推測される道筋が確認できる。軍事拠点である国府と霞ヶ浦を結ぶこの道は、陸路と水路の拠点をつなぐ道となり、「初期東海道駅路の主路」と評されている[※3]。また、道筋の先には信仰を集めた筑波山がそびえている。現在では、国道6号線の混雑緩和のため、天王塚古墳のすぐ南を通るようにして千代田石岡バイパスが建設中である[※4]。バイパス開発は千年村調査でよく見られる光景である

※1 明治期には河岸問屋篠目家が「高浜汽船会社」と改称し、新式の蒸気船を運用した。
※2 石岡市史編さん委員会(1985)『石岡市史 下巻(通史編)』 石岡市, p.836
※3 木下良(1996)『古代を考える 古代道路』, 吉川弘文館, p.66
※4 常陸河川国道事務所 千代田石岡バイパス https://www.ktr.mlit.go.jp/hitachi/hitachi00124.html より

◯集落構造

低地に恋瀬川が流れ、堤防を挟んで稲作地が広がる。さらに車道を挟んで、台地を背にした集落が展開されている。またこの台地には集落とともに古墳時代に形成されたと考えられる舟塚山古墳群や、古代国家である大和朝廷が全国統治を目的にインフラ整備を行った形跡だとされる古代道が存在するが、古墳は時代の経過の中でその存在を薄めていったのに対し、古代道は使用され続けたことによって現代までの集落形成に影響を与え、古代道沿いへ民家を集中させた。高浜では高浜港の存在により、産業が集中しており、商店などが多い集落である一方で、北根本では農業などの稲作地が展開された集落であるという違いが指摘できる。


◯千年村としての根拠と評価

茨城県最大の大きさを誇る舟塚山古墳を初めとした古墳群の存在から、古代からこの地域には強大な支配力が及んでいたことが分かる。また、古代道と推測される現石岡田伏土浦線周囲にも畑作を中心とした集落が展開がしている。南を流れる恋瀬川は度々水害の要因となりながらも、日々農作地帯に恵みをもたらす存在であった。人々は恋瀬川間近まで田畑を設け、台地の裾野に住環境を構える千年単位で持続した村の典型的な暮らし方を垣間見ることができる。
また今後について、この豊かな古代の原風景と歴史産業の共存を感じられる叙述的な地域は、隣接する地域(高浜等)とともに「千年村」活動の象徴として全国に魅力を共有することで、都会と茨城の地の利を生かし、首都圏近郊で体感できる古代の情景に多くの人が訪れ魅了されてほしい。

◯地域のキャッチフレーズ


古代発見!村

◯地域の写真

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舟塚山古墳1
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舟塚山古墳2
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環濠
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堤防
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