行方郡大生郷(茨城県) 2026登録済
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行方郡大生郷の比定地のうち潮来市水原は千年村に登録されました。(2026年1月15日申請)
| 緯度経度 | 35° 58' 56" 北, 140° 34' 42" 東 |
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現在の潮来町大生を中心に、同町釜谷・水原・築地・延方のあたりに比定される。(p170)
※潮来市水原の千年村登録に伴いプロット位置を変更しました。(2026年3月16日)
登録千年村についてはこちら
登録千年村の情報
基本情報
登録千年村第4号
登録地域:茨城県潮来市水原
申請者:笹島里紗子
申請日:2026年1月15日
申請者と地域との関係:調査で訪れたことがあり、とても面白かった地域
集落・地域の詳細
◯環境
水原は北浦西岸に位置し、沖積低地とその背後の微高地、台地から構成される。[※1]
集落の眼前に位置し、汽水湖である北浦沿いの砂嘴上には自然堤防が部分的に形成され、その上に集落や稲荷神社が立地している。また、古くは霞ヶ浦・利根川水系とつながり、水運が盛んであった。[※2]
北浦の湖岸は浅瀬が多く、葦原や湿地帯も多く残存することから、白鳥の採餌や休息地に適し、昭和以降安定的な白鳥の飛来地となっている。[※3]
このような白鳥の飛来を背景に1926年『茨城新聞』では次のような俳句が掲載されている。「白鳥や 群れて静けき 水原よ」
また図1を参照すると、台地上には縄文時代の貝塚や弥生時代の水田を伴った古墳群が存在しており、古代における海岸線がこの台地と近接していたことがわかる。その後、縄文海進を経て海岸線が後退したことで、愛染院の創立年などから、中世には海岸に近づくように微高地沿いに集落が形成され、さらに時を重ね江戸時代の新田開墾などを経て現在の集落形態を形成したと考えられる。この過程で、人々の住環境も海岸線の後退に伴い、段階的に外縁へと移動していったと考えられ、古代には台地上に、中世には微高地に、さらに近世以降は浅瀬へと進行していったと推察される。また、後節の集落構造にて詳細を述べるが、郷域北部の北浦沿岸には、水田の中央部に列状の集落も確認できる。
※1 国土地理院2.5万分の1地形図「潮来」
※2 潮来町史編さん委員会(1996)『潮来町史』,p.366
※3 潮来町史編さん委員会(1996)『潮来町史』,p.28~29,34~35
◯地域経営
水原では古くから、北浦の恵まれた水産資源が地元経済を支えた。『潮来町史』の中で、南北朝時代、香取神宮に漁猟や交通の特権を与えられた海夫の存在が確認された。海夫は、やがて渡船や廻船などの水上輸送に進出し、商業にも従事するようになった。鎌倉末期の1283年に完成した仏教説話集『沙石集』には「便船シタル法師ノ事」という逸話が残っている。若い法師(僧侶)が下総国のある渡し場で渡船に乗り込む際に「風早ノ唯蓮坊」と名乗ったところ、船頭から「風早」は暴風に通じ、「唯蓮」は「湯入レン(船に浸水すること)」と語呂が同じなので、ともに不吉であるとして乗船を拒否された。また、法師が「賃(船賃)ニハ大豆ヲコボレ、一升モチテ候ゾ」と言うと、船頭が「コボレ」は船が毀れることに通じると嫌がったという。[※4]このことから、鎌倉末期にはすでに船賃として大豆などを支払えば誰でも船に乗れるほど、水運が一般的であったことが示唆される。
現存する水田は、江戸時代に行われた北浦沿岸の干拓堤防建設に伴い低湿地を水田化したものである。自然堤防上の集落には、農業豊穣の農業神から稲荷信仰が生まれ、さらに漁業者や商工業者の守護神へと展開する稲荷神社が位置している。[※5]この稲荷神社は、背後に水田を擁すること、隣接する集落内の稲荷神社と同様に考えられることから、江戸時代の新田開墾と同時期に埋め立てた水田を鎮める目的で建てられたものだと考える。また船着場近くに水神宮(石宮の小祠)が確認された。
台地沿いの一角には、1054年に源義家が守護仏の如意輪観音菩薩を水原に安置したことが始まりとされる愛染院がある。
水原において、古くは漁業を主産業であった。その後江戸時代の新田開墾にて半農半漁となり、近世以降は漁業が衰退し農業が主産業となった。
※4 潮来町史編さん委員会(1996)『潮来町史』p.366
※5 潮来町史編さん委員会(1996)『潮来町史』p.912~914
◯交通
中世期には、「板来(いたこ)の駅」が置かれ、国府(石岡)と鹿島神宮をつなぐ交通上の要所となり、集落にもその影響が及んだ。これにより、水原などの集落は交通動線上に位置づけられるようになったと推測される。[※6]また江戸時代から明治初期ごろでは、行方・鹿嶋方面、霞ヶ浦を経由して内陸・江戸方面と結ばれていたが、そのうち北浦の水運が交通の中心であった。[※7]そのため、湖岸には小規模な船着き場や荷揚げ場があった(農産物・漁獲物・日用品の輸送)。[※8]また水運だけでなく、陸路は湖岸沿いに街道が通じており、近隣の延方・大生・麻生と連絡していた。[※9]愛染院や台地裾の集落の前の道路は古くから使われているものだと考えられ、近隣の釜谷や大生、潮来方面とを繋ぐ陸路であったのだろう。[※10]しかし近代以降は県道50号や湖岸道路の整備が進み、自動車交通が主流となる。現在は最寄りのJR潮来駅からのアクセスも可能であるが、湖岸道路から集落へと入る道筋がかつての堤防や湖面水位に沿って形成された古道の痕跡が残ると推測される。
※6 潮来市. ”潮来の歴史”. 潮来市公式ホームページ. https://www.city.itako.lg.jp/page/page000196.html , (閲覧 2025-08-11)
※7 潮来町史編さん委員会(1996)『潮来町史』p.365
※8 潮来町史編さん委員会(1996)『潮来町史』p.370
※9 潮来町史編さん委員会(1996)『潮来町史』 p.372
※10 千年村プロジェクト(2018)『2016-2017年度霞ヶ浦・筑波山周辺地域疾走調査報告書』
◯集落構造
湖岸の低地に水田、その背後の微高地には古道に沿った形の集落が形成されている。ここには古道沿いに北浦を望むように寺院(愛染院)や観音堂などが並んでいる。また、台地上には畑が広がり、金毘羅宮が位置する。堤防沿いにある舟着場には、水神宮が確認できた。
さらに、水田の中央に列状の集落も存在し、水運・農業の双方に適した立地を反映した構造となっている。このような形状をした集落の残存は、漁業に特化した集落が江戸時代の新田開墾を経て半農半漁に発展し、現代に近づくにつれ、漁業が廃れ農業専業に変化した集落のあり方を物語る。(図2〜4を参照)
また特出した点は、砂嘴上に形成された集落である。ここでは、フィールドワークにて自らが東西南北のどこを向いていたかわからなくなるような感覚を抱いた者がいたという。[※11]これは、古い自然発生的な集落として整備された街路形態をしていないことが要因として挙げられる。さらに周辺には江戸時代に開墾された水田が広がり、自然発生的な集落の周りに、後に形成されたと考えられる区画整理された水田が印象的である。(フィールドワーク所感)
※11 千年村プロジェクト(2018)『2016-2017年度霞ヶ浦・筑波山周辺地域疾走調査報告書』
◯千年村としての根拠と評価
水原は、〈千年村〉候補地の行方郡大生郷の比定地に含まれている。なお、古代においては浜の原遺跡などから、中世には愛染院や海夫の存在から、そして近世には新田開墾の事実からも、水原は千年単位で持続する〈千年村〉であると言えよう。
水原の特徴の1つとして、集落構造にて述べた「区画整理された水田の中に佇む地形に沿った集落」である。これは成立時代の相違を物語り、時代ごとで北浦の利用方法を変化させていることがわかる。砂嘴上以外の場所でも同様であり、古代から中世にかけては、台地上から微高地へと移動しながら漁業を中心産業としていたことから、北浦から水産資源を享受していた。また水原を起点とした水運産業も盛んであったことを確認している。さらに江戸時代になると水田開拓が行われ、引き続き漁業を行う一方、北浦の水を農業用水として享受した半農半漁を行ったことが水田中央部の列状集落からも確認できる。しかし明治以降、漁業と水運業は衰退し農業のみが残る。そして現在、昭和時代に白鳥の飛来地としての価値を創出している。ここから、水原は北浦からもたらされる恵みを、時代の変化の中で柔軟に対応させてきたことがわかる。
水原は、北浦の恵みが漁撈から水運へ、そして農業へと姿を変える過程に寄り添いながら、その都度、居住域を更新してきた集落である。古代には台地縁に近接していた水際は、時代とともに後退し、それに呼応するように人々の住まいもまた、微高地へ、さらに浅瀬側へと広がっていった。このような水原の集落形態は、北浦の汀線と向き合いながら形成されてきた痕跡の集合であるといえる。古来より北浦の恵みを生活基盤としてきたことこそが、海岸線の変化に応答しながら居住域を展開してきた水原の姿を物語っているといえるだろう。
◯地域のキャッチフレーズ
北浦を追いかける集落
◯地域の写真
| 図1. 平面ダイアグラム |
図2. 断面ダイアグラム① |
| 図3. 断面ダイアグラム② |
図4. 断面ダイアグラム③ |
| 図5. 水田と列状集落 |
図6. 愛染院からの北浦の眺望 |
| 図7. 北浦眼前の水田と北浦の堤防 |
図8. 水原の主要道路と微高地集落 |
| 図9. 愛染院敷地内から大地へと続く階段(大地上には金毘羅宮と墓、畑などが確認された。) | |
