武儀郡揖可郷(岐阜県)と賀茂郡美和郷(岐阜県)について 揖可郷は現岐阜県美濃加茂市伊(い)深(ぶか)町である。 半世紀ほど前の伊深村役場には、この地区に在住されていた大学教授(哲学・民俗学者)による「伊深の歴史」概略が掲示されていた。 揖可(いぶかの)郷(ごう) (伊(い)深(ぶか))という地名はいつ頃からあったのか 皇紀一四一〇年(天平勝宝二年 七五〇) 光明皇后(聖武天皇后)の弟で藤原(ふじわら)仲麻呂(なかまろ)(恵美押(えみおし)勝(かつ))の署名が入った、武儀郡揖可郷(いぶかのごう)から二十二歳の奴婢(ぬひ)「(土着以外の人・奴隷)」二人が東大寺に献上したという文献が歴史上確認できる最古の資料である。 これは「美濃(みの)国司(こくのし)解(げ)」という文献に銘記されていて、この「揖可郷」が現在の伊深のことである。 皇紀一五九七年(長寛元年 一一六三) 揖深荘が近衛家から鷹司家へ譲られたという文書が現存している。その後、鷹司兼平→鷹司兼忠らから興福寺大乗院へと所有が移った。 皇紀一九二三年(弘長三年 西暦一二六三年) 鎌倉時代中期、揖深庄(可が深に変わっている)の地頭は春日部(かすかべ)左(さ)衛門(えもん)泰(やす)実(ざね)だったが、非法のため解任された。「吾妻鏡」に記載 これらから「倭名類聚抄 武儀郡揖可郷」は「伊深」であるとされています。
賀茂郡美和郷(岐阜県)の疑問 HPには現在美濃加茂市の旧三和村に比定する説(未詳)とされているが、三和村の発祥は明治でありそれ以前の諸文献にこの地区を「ミワ」と称する記述は無く、前述の「揖可郷」の地域は現三和地区辺りも含まれていたとされている。 また近隣町史にも類似した記載がなされていて、この情報を基にされているならいささか疑問符のつくものである。
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