一昨日の朝日新聞BEで、千年村プロジェクトのことを知りました。さっそく私の住んでいる所の
そばにどこがあるか拝見しましたら、滋賀県栗太郡梨原郷が載っており興味を持ちました。 十年ほど前、この近くに青地城が現在の志津小学校になぜ築かれたか地理的な面から調べたこと
があります。うやむやになってしまいましたがこのプロジェクトと重なるところがあり参考にして
いただけたらと思います。 梨原郷の場所としてマーキングされている場所の東方向に草津川が流れておりますが、すこし遡
りますと山の尾根を切って流れております。このような地形は自然ではありえないもので、人工的
に切り開いたことがわかります。川の流れが、等高線と平行に近いかたちで流れていることからも
わかるかと思います。このような指摘は、土木関係や草津市教育委員会の方と話し合ったときそれ
ぞれからききました。確定的な証拠もなくうやむやのなっているようです。 尾根を切ってある上流付近から元の草津川は別の方向に流れていることになります。マーキング
してあるところに川が流れていますが、叔母川といいます。地図をよく見ていただければ、桐生地
区の草津川付近が源流らしいことがわかります。この叔母川が元の草津川ではないかと教育委員会
の方とも意見が一致しました。青地城の近くの田を深く掘ったら川原石らしいものが出てきたとの
話も聞いております。 ではいつ草津川が付け替えられたのか。草津川は北のほうにしばらく流れ西に方向を変えます。
ここでも自然の流れる方向からずれてまっすぐ琵琶湖に流れ込んでいました。この流れは条理をつ
っきて流れており、平行に流れています。条理の中を川が流れるということは川が先にあればこの
ようなことは避けているはずです。この付近の条理の成立は鎌倉時代ではないかと言われており、
これ以降に草津川が付け替えられたということになります。 そしたら下限はいつかということになりますが、全く資料が見つかっていません。江戸時代だと
すると、これほどの大事業にもかかわらず記録がないということは考えられませんから、中世とい
うことになります。中世この付近は比叡山延暦寺の寺領と金勝寺、一部園城寺の寺院勢力と、佐々
木六角氏およびその家臣の青地氏の勢力が拮抗する所となっていました。この中のどこかが主体に
なってこの事業をしたのだと考えています。 平安時代に編纂された『和名類聚抄』から梨原郷という地名を拾われたとのことですが、その時
のビスタは大きく変わったことになります。なぜ大きな環境変化にもかかわらずこの郷村が維持さ
れてきたのかお教えいただければ幸いです。
追加:滋賀県の郷名一覧から探したのですが、その下にある「現在地に比定できなかった郷名一覧
」は滋賀県の地名にもかかわらず、三重県となっています。間違いではないでしょうか。
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